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LS / Ryusenkei-Body
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【DDCM-5013】06.06.07発売 2,000円
■収録曲
01.Animus quo#1
02.Saltus
03.Maud
04.Remenber
05.It’s You Or No One
06.Topos
07.Convertible
08.Bar
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■コメント
ジャズ・インプロヴィゼイションのテイストを含みつつ、ストイックにミニマリズムを表現したエレクトロ・ビート・ミュージック。余計なものを廃したのではなく、最初から欲しいものはこれだけだったという無垢な魅力に溢れている。”ピアノがグリッチ・ノイズに取って代わったワンホーン・カルテット”と言っても良いくらい、サウンド構成のバランスが確立されていて、何より1曲1アイデア、いや、1アルバム1アイデアに徹しているところに憧れる。
クールという表現とは違ったストイックさ・・・いやストイックというと大人っぽいなあ・・・子供の頃、工業廃棄物置き場に迷い込んでしまい、捨ててあったネジやバネを拾い集めて、宝物を見つけたかのように夢中になった時のことをフラッシュバックさせられた。
そう、これはRyusenkei-Bodyから産み落とされた、夢想の宝物だ。
(坪口昌恭)
大胆かつ、しなやかに。Ryusenkei-Bodyのサウンドは、その場のすべてを大きくストレッチ・アウトさせていきながら、同時に、濃密に凝縮 していく。
ちょうど我々が旅行に出て、何かを感じるときのように。そしてグリッチ音のテクスチュアと、勇敢なサクソフォンの響きは、聴く者が思わず手を伸ばしてつかみたくなるような確かな感触を持っている。
愛らしいIrving Berlin/Sammy Cahn作のスタンダードにおける解釈は斬新で、豪胆ですらあり、淵からこぼれ出さんばかりだ。
(サム・ベネット)
『LS』マスタリングの現場から(「soundworm, 音虫記」より)
マスタリング作業は相対的な事象、差異との一種の闘いで、しばしば思考はゼロを取り巻くものとなって展開する。例えば+1秒とか、-0.5dBとか、プラスとマイナスとの綱引きの間には常にゼロのセンターラインが想定されている。しかしゼロは常に更新され、そもそも便宜的な概念だから、完成した建築物の墨出しや鉄筋が見えないのと同様、リスナーの耳に届いた時点で我々が加減の拠り所としたゼロは音楽の中に溶けて無くなってしまう。
普段、そんなこと当たり前すぎて考えもしないのだが、『Ryusenkei-Body』の『LS』のマスタリング作業が終わって妙にそんなことが漠然と思い返される。なんとなく彼らの音楽は、例えば印刷物のトンボとか、映像のタイムコードの表示とか、テストトーン、クリック、アンカーポイント、グリッド、ガイド、パス...そんな完成品に現れない、プロセス上だけで役目を終えて消える、人でもモノでも作品でも無い存在にまで愛をもって接してるのではないかという気がする。
このセンシティブな態度は、作品の全編を貫いてるムードにもやはり反映されてて、なおかつパラノイアックでは無く、必要なプロセスとして音楽に還元されてるところが 美しいのである。
(庄司広光)
Ryusenkei-Body礼賛
僕はサックス奏者なので、プレイヤーとして、同世代のサックス奏者がどんなことをやっているのか、どんなことを考えて音を出しているのか、ということが常に気になる。色々なプレイヤーから刺激を受けているけど、中でも伊藤匠さんと、大蔵雅彦さんの二人が、ライブも音源もそれぞれ、何度聴いてもやはりずば抜けて面白いし、自分が音楽を行なうことに関して最も大きな影響を受けてきたと思う。
二人に共通しているのは、インプロヴィゼーションにおけるサックスの奏法/語法の拡張を積極的に探求することと同時に、自分のバンドをがっちりオーガナイズして、きちんとしたフォルムを持った、新しい構造を持ったバンド・サウンドを組織しようとずっと取り組み続けているところだ。
演奏の現場において、自分の声である楽器の中に、これまで聴こえてこなかった様々な音を引き込む実験を続けながら、そこで得られた新しい音を常に、その音が欲している新しい音楽的構造とは何か? という問いでもって計りにかけてゆくこと。
僕たちが演奏をはじめた1990年代、特に95年から05年にかけては、デジタル・プロセッシングの進化に伴って、演奏に使うことの出来る音楽的な素材が拡張しつづけていった十年間だった。この傾向はもしかするとこれからしばらくは続くかもしれないが、伊藤匠の率いる『Ryusenkei-Body』の1stアルバム『LS』は、そういった音素材=テクスチャーの拡張という事態を全面的に引き受けながら、それを実に繊細かつ厳密に限定し、構造化することに成功した、00年代後半の先鋭的バンド・アンサンブルがお手本とするべき傑作である。
例えば、電子音からはじまる『Saltus』の、イントロにさりげなく置かれた四小節、四拍目の裏に入っている接触音。その後の、最初のベースの一発目のモーションと、キーボード・ベースとの交錯の在り方。『Maud』におけるライド・シンバルのキープと高周波電子音のブレンド具合。その他、スネアのブラッシングとホワイト・ノイズ、リム・ショットとクリックなど、電子音とアコースティック・ドラム・サウンドとその変調が織り成すビートの魔法。曽田陽のサックスによるアコースティックな微弱音と、薄いフィードバックと、微かなホットタッチ・ノイズの干渉……などなど。このアルバムでは、これまで演奏の現場で鳴ってはいながら見捨てられてきた微弱な音、不安定な音、不十分な音が、コンピューターという装置によって拡大/縮小されることで取り上げられ、そしてそれはさらに伊藤独自のミニマリズムによって吟味され、一曲中最も美しく響くような場所を与えられて、新しいライブ・アンサンブルの一要素として昇華されている。『Topos』の、ホワイト・ノイズと高周波の中から聴こえる一滴のシグナル——こんなに色っぽいA♭はない。
僕が最も感動したのは、やはり、ここにある音の全てが、単に「鳴らせるから」「目新しいから」といった安易な態度によって導入されているのではなく、これまで彼らが手元に持っていた、しかしまだ使うことが出来なかった道具の拡張から生まれてきているという点だろう。ここにあるノイズやグリッジは美学的な見地からではなく、まさに演奏現場における必要性から、その導入とコントロールとを求められていたものであったのだし、これはまさにモダン・ジャズ的なフィーリングだと思うのだが、この感覚は僕には痛いほど良く判る。こうしたサウンドの中にあって、二曲のスタンダード演奏において伊藤さんのサックスの音が素っぴんで鳴らされていることも……。
もう既に何回聴いたか分からない『Ryusenkei-Body』の『LS』。そのボディのフォルムはシャープで、ダイナミックで、ストイックで、グラマラスだ。最も遠い要素を同時にジャグリングしながら、彼らは00年代後半の音楽シーンを静かに疾走してゆくだろう。
(大谷能生/ミュージシャン、批評家)